しばらく前に話題になっていた、【君の膵臓をたべたい】。とんでもない題名だったので当時は敬遠していました。小説が映画になっていたらしく、評価がほぼ、高かったので見てみることにしました。ただ、一部にかなりの低評価もあり、なぜだろうと思いました。
映画の感想
映画は何の前情報もなく初めてみた感想としては、とにかく泣けたの一言でした。
主演の桜良役の浜辺美波さんがとても魅力的です!映画は彼女にすべて持っていかれた感じです。浜辺美波さんは、宣告された死を目前にしてもしっかりと毎日を充実させて生きようとする高校生を見事に演じていました。
浜辺美波さんについてはこちらの記事もどうぞ。
また、「僕」役の北村匠海さんの演技も良かったです。周りに惑わされずに自分を貫く演技をきちんとこなしていました。
一部低評価レビューの要因
映画の印象は、浜辺美波さんのかわいらしさ、これに尽きます。
北村匠海さんも素晴らしい演技してましたし、ストーリーもしっかりしています。
ではなにがそんなに低い評価をつけるもとになるのでしょうか。
気になったので、低評価のレビューをみてみました。
低評価は、ほぼ原作との比較をしていました。
原作>映画
ということらしいのです。
原作と映画のちがい
というわけで、私も原作を読みました。
以降はネタバレもありますので、ご注意ください。
原作では、桜良(さくら)さんと「僕」=春樹くんは対等の描かれ方をしていました。
また主人公は、桜良さんというよりは、「僕」でしょう。
映画では死の病にかかった桜良さんに焦点を当てるあまり、「僕」の成長をそれほど(ことさらには)見せていないように感じました。
原作では「僕」の成長ぶりを、彼がつかう言葉や対応や行動で表現していました。
物語の終盤に至っては、「僕」は、桜良さんと出会うまで自己完結ですべてを終わらせて家族以外は無関心を貫いていた言動を、自己完結で終わらせることなく他者をも巻き込んでいきます。
自らの選択で行動し、結果を持ってくるまでに成長したんです。
しかし、映画ではその最後の部分の描写がありません。
桜良さんの死から、「僕」の時間は止まってしまったようです。
映画の最後の場面、恭子さんの結婚式の控室で「僕」が手紙を渡すシーンがありますが、突発的すぎて深みが見い出せませんでした。
なぜこうなってしまったのでしょうか。
現在進行形と回想
映画では、12年後の「僕」の回想と言う形で物語を語っていて、桜良さんが残した共病文庫も原作とは違う形になっています。
このため、「僕」は高校2年生の時のまま桜良さんの生前の言葉を胸に秘め、守って生きてきただけ、というようになってしまっています。
それは桜良さんの親友の恭子さんにとっても同じでした。
「僕」も彼女も桜良さんからネタばらしをまだされていないのです。
原作では、共病文庫の終わりに書いてある桜良さんの遺書によって、桜良さんが亡くなってまもなくの高校時代に、「僕」、恭子さんの中で区切りをつけ、先に進むことができています。
でも、映画では2人は過去の桜良さんとの関係にケジメがつけられていない。
それは「僕」の最後の成長(=選択)がなかったから。
原作では、彼は、最後の最後でその自身の成長を、桜良さんの死をある意味きっかけにして、自らの選択で、飛躍させることができました。
それによって桜良さんの親友である恭子さんとの関係も今までとは違ったものに変化していったのです。
「僕」は映画の中でも序盤は徐々に成長していました。
ですが、残念なことに映画では最後の飛躍のくだりがありません。
12年後の「僕」、恭子さんは、まだ桜良さんとの関係に区切りがついていないのです。区切りがつく?のは結婚式の待合室の場面です。
さきの飛躍の部分を先送りして端折った理由はわかりません。しかし、桜良さんと「僕」の二人の成長物語という面で、この作品を見ると、映画版は、とても残念なことをしたなという気持ちが拭えません。
また、自らの死後のことをほぼ明確に想像できていた桜良さんが、図書館に2人にあてた遺書を隠すなんてことをするとも思えないです。共病文庫というほぼ確実に「僕」にメッセージを渡せる手段がありながら、学校の図書館の書庫に最後の手紙を隠すなんて、ちょっとリスキーすぎやしませんか、と思ってしまうのです。
実際見つけたのは在学中ではなくて、卒業して12年も経過してからですし。
周囲の親しい人に最大限の配慮を払う桜良さんが、「僕」が手紙を見つけない可能性もある手段をとることはありえないと思うのです。
桜良と「僕」の関係性
映画では、桜良さんだけが美化される存在になっていました。
その他の人たちはその桜良さんを懐かしみ讃えるだけの存在になってしまっているように感じられました。
不治の病に侵された少女と彼女に寄り添う男友達の言動から、生とは、死とは、というとても深い問題が提起されていたと思うのです。ですが、あまりにも桜良さんの死が全面に出すぎていて、ほかの部分が霞んでしまったように感じました。
原作では桜良さんと「僕」は、あくまでも対等な関係でした。
2人は自分にないものを相手に認め、相手を憧れ、そばにいることを選びました。
「僕」は、表に出ること、自ら選択することの素晴らしさを桜良さんから学び、桜良さんは集団の中で対比して選んでもらっている自分を、他人と比較としての相対的な自分ではなくて、絶対的な自己として認めてもらうことの素晴らしさを「僕」から学びます。
また、死を宣告された病を身近に置きつつ日常を過ごす二人は、生きるということを真剣に考えていきます。
桜良さんが、「僕」からの質問に答えます。
「生きるということは、誰かと心を通わせること」
これを聞いた「僕」は、衝撃を受けます。自分は初めて今、生きている、と。
彼ら2人は、選択に選択を重ねだんだん成長していったんです。
繰り返しますが、映画でも「僕」も成長しています。
ですが最後の最後の桜良さんが亡くなってからの彼の選択が描かれていないから、成長がそこで止まってしまったのです。もっといえば、止まっただけでなく元の「僕」に戻ってしまったようです。
桜良さんとすごした時間で「僕」はかなり成長したはずなのに、逆戻りなんです。そう考えると、映画は、すごくもったいない終わり方になっているんです。
それは映画冒頭の12年後の変わっていない「僕」をはじめに設定したことで、仕方がなかったことかもしれません。
あとは最後のメール、「僕」から桜良さんに送った最後のメールが開封されたかどうなのか、これを明らかにしないで終わらせてしまったのは、いかがなものかとおもいました。
まとめ
映画は、原作とはテーマが違ったということなのかもしれません。
そういう意味では、この映画は、イベントや設定は原作を基にしたものではあるけれど、実際は二次創作といってもいいものかもしれないです。
原作を読んでみると、映画中の桜良さんのキャラクターに若干違和感がありましたので、桜良さんは浜辺美波さんとはまた違うキャストで見てみたい気もします。
とはいえ、主演の浜辺美波さんはとても魅力的な桜良さんでした。
原作を知らないでも、考えさせられる、とても良い映画だと思います。
ぜひいちどご視聴されることをお勧めします。
そして、映画をご覧になったら、原作も是非読まれることをおすすめします。
最後までお読みいただきありがとうございました。